“ピンポーン”というあまりにも典型的な音と、
「すみません、少々お待ちいただけますか」という機械越しの声で、
それは始まる。
ばたん、とドアの向こうが一度大きく鳴ってそれから、たん、とシンクに水が流れる音がする。それに続いて、ぱたぱたと扉を開閉する音と、陶器が騒がしく触れ合う音。古泉は今、台所だろうか。そう考えながら、俺はアパートとマンションの中間のような建物の、その壁にもたれ掛かる。もう夏だといっても差し支えないこの季節、とりあえずの手土産にと途中で買ったペットボトルが手に重い。こんな暑いさなかに人を待たせるなんて何事だ、そうは思ってみても、パタパタどたどた忙しなく響いてくる物音を聞きながらああ今度は寝室だな、と思うぐらいには俺も事態を把握している。扉の向こうからはまるで家捜しでもしているかのような盛大な物音のハーモニー、本と衣類と各種生活雑貨によるオーケストラだ。コンサートの開催にはちょっと場所が悪すぎると思うがどうか、上下左右のお隣さんから苦情が来たりはしないのだろか。それにしても暑い。少々お待ちくださいのその“少々”は何分だと聞けばよかったかと考えて、いつもそんなにかからなかったなと思い返す。まあ、いつものことだと思うぐらいにはこの状況に慣れてはいる。慣れてはいるのだが、いつものことだからこそこう思わずにはいられない。
なんで部屋ぐらい片付けれないんだろうかね。
さて俺が一体何をしているかというと、古泉を待っているのである。
正確には、古泉が家に入れてくれるのを待っている、とでも言うべきか、とにかく古泉が家の中でどたばたよろしくやっている間、俺は外で待たされているわけである。この時間、古泉が何をやっているか俺は知らないし聞いてもいない。いないけれども予想はできる、古泉は部屋を片付けているのだ。…と、言ってみたところで部屋の中から聞こえるこの物音を聞けば誰でも分かるようなことなので何の自慢にもならない。確かに突然訪ねる俺も俺だが、もう少しどうにかならんもんかね。別に高校生の一人暮らし、少々荒れてるのはしょうがない。しょうがないのだがせめて出した物ぐらい定位置にしまったらどうだろうか、部屋にある立派な本棚は飾りなのかそうなのか。女の子が見たら泣くぞこの惨状。いや、それともギャップ萌えとかいうやつで喜ばれるのだろうか忌々しい。最初はこうじゃなかったんだがな、と思わず遠い目をしてしまう俺を誰が責めることができようか。
そう、最初、最初に宿題を教えてもらいに訪れたこいつの部屋は、驚くほど綺麗だったのだ。言葉もなく驚く俺を見て、そんなに意外でしたか?と目元を柔らかくして笑う古泉になんとなく悔しくなって、汚かったら盛大に馬鹿にしながら片付けてやるつもりだったんだよ、と言い訳なのかな何なのかよく分からない言葉を返したのはそう昔のことじゃない。それはもったいないことをしました、とまるで本心のようにがっかりした口調で返す古泉に向かって、ざまーみろと更によく分からない言葉を投げ返したことまで覚えている。
そしてそれならばと思って連絡なしで訪れた平日、冒頭のやり取りとまるで同じやり取りの後、20分ほど待たされて招き入れられた古泉の部屋は最初とはまるで違う混沌とした部屋だった。今度は別の意味で言葉をなくす俺を見て、あなたが急に来るからだとか言い訳じみたことを言い出す古泉に俺は笑って言ってやった、「今日は、片づけからだな」。
声が妙に弾んだのは、断じて俺の意思ではない。
つらつらと回想にふける間にも扉の向こうのコンサートが止む気配はない。とはいっても俺にできることはといえば待つぐらいなわけで、ぼんやりと思索にふけるほか暇のつぶしようがない。ちゃんと連絡しておけば待つことなどないのだろうと分かっちゃいるが、こうやって古泉が焦るのがなんとなく面白く、一度目の訪問以来、約束してから訪ねたことはなかったりする。なぜ面白いのかは自分でもよく分からないが、一見完璧に見える人間の、隙が見えるようで楽しいんだろうかとも思う。正直なところ多分、部屋が綺麗か汚いかは、途中からどうだってよくなっているのだ。ただこうやって、自分のせいでペースを乱す古泉が見れるのがどことなく嬉しくて楽しくてたらまらない。自分のことながら、ずいぶんと悪趣味だ。
「すみません、お待たせしました」
そう言って慌しく開いた扉の先、焦ったような古泉の顔と部屋の惨状に「今日も片づけからだな」と言って笑う。
乱れた髪もそのままに無防備に息を弾ませる古泉の、ただその顔が見たいがためのこの行動を、本人に言えるはずもない。