“ピンポーン”というあまりにも典型的な音に、
「すみません、少々お待ちいただけますか」と機械越しに返して、
それは始まる。
インターホンの受話器を置いて一息、ばたん、と廊下への扉を開けて早足でキッチンへ。水気もなければ食器もない空っぽのキッチンに立って蛇口をひねると、たん、と音がしてシンクに水が流れ始める。上の扉を開けて、とりあえずそれらしい食器をシンクに積み、下の扉からは適当な金物を出す。ざっと乱雑に並べて水をかけ、それらしい雰囲気に整えて、うん、こんなもんだろう。ひとつ頷いて時計を見ればもう5分、思ったより時間が経っている。ぱたぱたと寝室兼リビングである部屋に戻り、年代・作家順に並べられた本棚から本を適当に引っこ抜く。床にばらまくと半端に開いて落ちたページがくしゃりと折れ曲がったのだけれど、申し訳ない直している暇がない。ちらりと目の端に映ったそれは貴重な初版本だった気がするがそこはそれ、数時間後の自分に盛大に反省してもらおう。そう思いつつ机に整理してあるプリントや筆記用具の位置を雑にずらし、ハンガーの服を適当に引っ張り落してさて10分、ぐるりと部屋を見回せば、果たしてそれは期待通り、先程までの雰囲気をがらりと変えた部屋が広がっていた。
やっとそれなりに荒れてきたけれど、まだ足りない。
さて僕が一体何をしているのかというと、部屋を汚しているのである。
人を待たせてまで部屋を汚すなんて、普通ではない。わかっているけれど、まあ僕の話も聞いて欲しい。自分で言うのもなんだけれど、僕の部屋は本来それなりに綺麗だ。小さい頃から両親が片づけにだけは厳しかったので出したものを出したところに仕舞う癖がついているし、そもそも高校生の一人暮らし、料理をするわけでもないのでキッチンも荒れようがない。せいぜいお湯を沸かすくらいだ。アルバイトで疲れて相当荒れ果てた生活を、と思っていた皆さんには非常に申し訳ないけれど、僕の生活は至極普通だ。というか、涼宮さんによって普通じゃない力を与えられた僕は、躍起になって普通であることを保っていたので、今でもわりとまともな生活をしている。料理だって一人分を作るのが非経済的だから作らないだけで、それなりに美味しいものを作る自信がある。一人暮らし特有の自分好みの味付けをするので一般的に美味しいかは分からないけれど、誰に食べさせるわけでもないからそれでかまわない。
それになにより、部屋が荒れると物を無くすのだ。ご覧の皆さんが果たして学生か社会人かは知る由もないけれど、もしどこかの会社にお勤めなら分かっていただけると思う、重要書類を無くすことがどんなに恐ろしいか!…というか、そもそも配布物の中に稟議書のコピーなんて入れないで下さい森さん。複製・持ち出し禁止の判が押してあるじゃないですかこれ。そうは思うものの僕が森さんに意見して勝てたことなどないので、そこはもう諦めて、大人しく片づけという名の自己防衛に勤しむ日々だ。
そんなわけで、突発的なアルバイトを除いては普通の高校生より真っ当に生活をしている自信がある。あるけれど、それら諸々を含めて普通であることが彼女への密かな反抗だったと言ったら彼には笑われるだろうから、言うつもりはない。
つらつらと考えながらも、時間がない、身体を機械的に動かしていく。ベッドからシーツをひっぺがして適当に掛け直し、衣装ケースからいくつかの服を放り出す。景気良く飛んだ服の落下点も確認せずローテーブルに向かい、横に置いてある通学バックの中身をひっくり返す。どちゃ、という形容しがたい音を立ててばらまかれたそれらの中から機密的に問題のありそうなものを拾い上げ(ICレコーダや各種鍵の束はともかくとして、彼の写真はどちらなのかといつも迷う)、鍵のかかる棚机につっこめば15分、もうそろそろタイムリミットだ。荒れ果てた部屋を見回して満足げに息をつくと、彼を玄関に迎えにいく。
「すみません、お待たせしました」
そう言って扉を開けると、僕の肩越しに部屋の惨状を認めた彼が、「今日も片づけからだな」と言って笑う。
そうやって呆れたように優しく笑う彼の、ただその顔が見たいが故のこの行動を、彼に言えるはずもない。