これはただの思考実験であり、実世界には何の影響もありません。
そのことを、お忘れなきよう。
「たとえばの話です」
緑色の盤面に、ぱちん、と黒い石を置く。
「僕と涼宮さんが、崖から落ちそうになっていたとします」
隣の白をくるりと返せば彼の眉間に微かに皺が寄った。さて、これは良手と悪手、どちらの意味なのか。
「あなたはどちらを助けますか?」
多分後者なのだろうなと思いながら”どうぞ”とばかりに首を傾げると、彼は悩みもせずに白い石を置いた。
「ハルヒだな」
彼の指が淡々と石を裏返していくのを不思議な心地で眺める。簡単に裏返されていく黒の石。ルールも理屈も分かっているのに、なんでこうなるのかが未だによく分からない。
「ええ、是非そうしてあげてください」
欲張り過ぎなのだろうかと考えて、今度はひとつだけとれる場所に石を置く。彼の口から告げられた満点回答に、笑みが自然と深くなるのは嫌味ではない。
「…いっておくが、それが朝比奈さんでも長門でも、俺はそっちを助けるぞ」
僕の言葉に何か思うところがあるのか、彼は呆れた様子で頬杖をつく。何気なく置かれた石は、それでも僕の石をくるくると自分のものにしていく。
「それは至極もっともかと」
彼の性格を考えれば容易に想像がつく答えに軽く頷いて、次の一手を考える。やはり一番石がとれる場所に置くべきか。そう考えて白が密集する場所に石を置くと、縦横斜め、かなりの数が僕のものになる。なかなかの案配だ。
僕がひとりで満足していると、目の前から小さな溜息が聞こえた。
「-ただし、」
彼はまたもや即決で石を置くと、そう言ってそのままの姿勢で動きを止める。
「俺がハルヒなり朝比奈さんなりを助けている間、お前は崖にへばりついておく義務がある」
助け終わったら、次はお前の番だ。
盤面を見ていたはずの彼は、いつの間にか僕を見ていた。透き通った黒い眼が、まっすぐに僕を射る。
「…それじゃ質問の意味が無いじゃないですか」
ああ、あなた偶に無駄に格好良いですよね。何が無駄かって、それをみせる相手が僕だというのが。
もったいない。
「うるさい。俺はお前の被虐的な妄想につきあう趣味はない」
彼は相変わらず淡々と僕の石をひっくり返していく。盤面に戻った視線が、少しだけ名残惜しい。
「というか、ここでお前を選ぼうもんなら、真っ先に手を離しそうだしな」
ぼやくような彼の言葉に、おや、ばれましたか、と心の中だけで返して次の手を打つ。
というか、あなたが一瞬でも迷った時点で僕はあっさり手を離すつもりですよ。あなたが惚れたとかいう僕は、残念ながらそういう人間です。別に僕は片思いで全然構わなかったのだから、涼宮さんに惚れれば良かったのに。
強がりでも何でもなく普通にそう思うけれど、言えば怒るのが目に見えているので僕は沈黙を守る。
「それに考えてみろ、お前が落ちようもんなら、ハルヒは自分が落ちかけだろうが何だろうが関係なく手を伸ばすぞ」
盤面の角、有利な場所とされる場所に石を置きながら、彼は小さく肩をすくめる。
「あはは、それは困りましたね」
瞼の裏に難なくその情景が浮かんで、思わず苦笑してしまう。
彼女は優しい人だ。そして誰よりもこのSOS団という集団を大切にしている。その中に僕も含まれているというのが面映ゆいけれど、その事実を最早疑ったりはしない。疑うのは彼女に失礼だと本気で怒ったのも、そういえば彼だった。
僕が物思いに耽る間にも彼は石を返し続ける。その動きは、淡々と何気ない動作に見えて迷いがない。最後のひとつを返した彼は、小さく息を吐きながら顔を上げた。
綺麗な黒い眼が、また僕を見る。
「…わかったら、これ以上事態をややこしくするな」
気が付けば真っ白に染まった盤面に、両手をあげてホールドアップ。降参だ。
「了解しました」
じゃあその時は、せいぜい頑張ってみるとしましょう。