先に断っておくのだが、この話に深い意味はない。
 ただの暇つぶしである。

 


「たとえばの話だ」
 チェスボードを挟んで古泉と向かい合い、白のポーンを運ぶ。
「俺とハルヒが崖から落ちそうになっていたとする」
 コトン、と置いた先には黒のナイト。お前らしいといえばそうなんだが、この配置は迂闊すぎやしないか?
「さて、お前はどちらを助ける?」
 言いながら黒のナイトにご退場いただいていると、古泉は、ああ、そうきましたか、と呟いて口元に人差し指の背を当てた。そして少し考える素振りを見せると、黒のクイーンを動かしながらごくあっさりと答える。
「涼宮さんですね」
 黒いドレスの女王様が移動した先は、白い塔の目と鼻の先だ。どう考えても悪手だが、これはもういつものことなので溜息も出ない。
「即答だな」
 ここはあえて塔を動かさずに様子を見るべきか。何かのトラップという可能性も…ないか、古泉だしな。そう判断して遠慮なくクイーンを取得すると、盤上の情勢はより決定的になる。
「ええ、当たり前じゃないですか」
 僕の立場を忘れた訳じゃないでしょう?
 そう言いながら動かすのは、残った方の黒い騎士だ。最前線から少し離れ、防御に手が回らなかった聖職者が取られた。今度の手はなかなか悪くはないが、この状況では焼け石に水程度の反撃だな。
「それに…」
 白い馬を盤上から取り除きながら、古泉が言葉を続ける。
「それに?」
 続く言葉を促しながら、俺は摘んだ白いクイーンを軽く振る。今更時間稼ぎしようったって無駄だからな。そう思って盤上から目を上げると、ちょうどこちらを見ていた古泉と目が合った。
 古泉は、まるでいたずらをする前の子供のような目で笑う。
「ここで躊躇なくあなたを選ぶような僕を、あなたは好きになりましたか?」
 そう告げた古泉の声に気負いはなく、むしろ楽しげな色さえ覗かせている。そして俺はといえば間抜けなことに、突発性金縛りにかかってしまったかのようだ。今、絶対何かが憑いた。さっき取った黒の女王様だろうか、でもそれはチェスというゲーム上不可抗力であるからしてどうか勘弁願いたい。
 古泉はそんな俺の様子など気にもせず、まるで何事もなかったかのように盤上に視線を戻す。
「…大した自信だな…」
 思わずぼんやりと呟いたまま固まっていると、目線だけを上げた古泉に、あなたの番ですよ、と促される。うるさい、そんなことは分かっている。というか、お前キャラ変わってないか…?こういう話には敏感で、悲観的だった気がするんだが。
 白いクイーンを黒のキングの目前に置けば、古泉はその王様を逃がしながら、何でもないことのように呟いた。
「そうしたのは、誰でしょうね」
 古泉は何かに呆れたかのように窓の外に視線を逃がしてから、少しだけ困ったようにこちらを見る。その少しだけ緩んだ雰囲気に、うっかり見惚れてしまった自分が悔しい。

「…これは自惚れてもいいのかね」
  白の騎士を動かすと、黒の国の王様にはもう逃げ場がない。よって、俺の勝利である。あるわけだが…。

「どうぞご自由に」


…試合に勝って勝負に負けた気がするのは、どうしてだろうね。





【思考実験、もしくはただの与太話。】
 2009/08/01