トゥルルル、トゥルルル、

 薄暗い夜道を一人、背中を丸めながら歩く。
 等間隔で落ちる街灯の光は、人気のない冬の夜を一層寒々しく浮かび上がらせる。

 トゥルルル、トゥルルル、

 息は白く白く、夜空へと上がっていく。
 視線だけで追いかければ、その先には冬の星、シリウス、プロキオン。

 トゥルルル、トゥルルル、

 ふと思い出したその面影に、取り出した携帯で電話をかけた。
 アドレス帳を開かなくても短縮一番で繋がるという事実は、誰にも言うつもりはない。

 トゥルルル、

 …もちろん、そいつ自身にも。


「はい」
 コール7回の後、少しくぐもった古泉の声がした。電話越しにエンジン音が聞こえて、遠くなっていく。こいつも、外にいるのかもしれない。
「遅い」
 一言呟くと、電話口から盛大な溜息が聞こえた。

 高校の頃、笑顔で覆い隠されて全体的に控えめだった古泉の感情表現は、大学に入る頃には随分と普通になった。それを良いことだと思いながらも、周囲に大安売りされているだろう様々な表情を想像しては、勝手に悔しくなったりする。俺だけのものだったんだがな、という心の声はあまりにも子供っぽい独占欲にまみれているので、口に出したことはない。
「無茶言わないで下さい」
 明らかに呆れた声は、それでも柔らかく耳元に響く。くすぐったいような気持ちになりながら、その気持ちが声に出てしまわないよう気をつけながら話す。ひねくれているのは、昔からだ。

「何してた?」
「サークルで飲んで、その帰りです」
 首都圏の大学に受かった俺と、関西の大学に進んだ古泉とが連絡をとりあうのは、普段はメールが中心だ。それは俺と古泉の活動時間帯が微妙にずれているという、時間的自由度の高い大学生という生き物を象徴したような理由による。生活時間が同じだった高校時代とは違うのだ。
「一人か?」
「そうですが」
 一人じゃなきゃ電話にでませんよ。
 携帯越しに柔らかい声が落ちる。その言葉に、普段、古泉の周りをとりまいている様々な誰かの存在を想像して、何ともいえない気持ちになる。想像上のそれは、大学の友人の姿をとり、バイト先の先輩の姿をとり、それから、古泉に思いを寄せる女の子の姿をとったりする。
 大学生になった古泉を取り巻く新しい環境。俺の頭の中に浮かんでいるそれは、古泉が話す近況の断片を勝手に組み上げて想像した世界だ。何故そこに自分が居ないのかなんて、十分すぎるほど分かっている。覚悟の上で選んだ進路だから、後悔はない。けれど。
「ふうん」
 胸の内を悟られないように相槌を打つ。ただ何となくかけた電話だ、特に連絡事項があるわけでもない。
 …なんて、自分自身を誤魔化したって空しいだけなので白状してしまうが、ただ声が聞きたくなった。それだけだ。らしくないのは俺自身が一番よく分かっている。似合わない。本当に似合わない。でも、古泉に惚れてからこっち、似合わないことばかりをしている。

「あなたは?」
「俺も飲んでた。サークルの女の子をちょっと家まで送ってきた帰り」
 あの子たぶん俺に気があると思うな。
 そう口にしたのはほんの気まぐれで深い意味はない。けれど、お前もちょっとは焦ればいい、と思ったのも事実で。実はそれがサークルの女の子じゃなくて、合コンで知り合った女の子だというのは流石に伏せておく。なお、誤解がないように言っておくが、俺はただの人数あわせである。ただ、誘われると断らないから、こういう機会にちょくちょく呼ばれたりする。飯もおごりだし、特に不満はない。

 正直に言って、どうかと思うのだ。古泉しか知らないというのは。
 今だって、女の子を見れば普通に可愛いと思うし、こういう子を彼女にしたい、という理想だってある。だから、あえて女の子に目を向けてみたりするのだが、その度に自分がどれだけ古泉に惚れているか思い知る羽目になって上手くいかない。今日の合コンだって結局、急に来れなくなった女の子の代わりに来た子(つまりその子も人数あわせだ)と、和やかな世間話をするだけに終わってしまった。
 そして、それを良い雰囲気と周りに勘違いされて家まで送ることになってしまったという、タネが分かれば非常に何でもない話で。だから別に、その女の子が俺に気があるという訳ではない。…古泉の気を惹きたいが為の、うそっぱちだ。
 ここまでくると、あまりにも情けなさ過ぎて笑えてくるね。
 そんなにこいつが好きなのか、俺は。

「ああ、それはどうもお疲れ様でした」
 どんな言葉が返ってくるかと少し身構えていた俺に、相変わらずののんびりとした声が降る。幸か不幸か、その声には嫉妬の欠片すら含まれてはいない。
 まあ、そんなものだよなと適当に相づちを返そうとして、聞こえてきた言葉に息を詰めた。

「あなた、下心が笑い方にモロに出ますから、次のチャンスがあれば気をつけて下さいね」

 …呻き声は、聞こえてしまわなかっただろうか。
「あっ、そうだ。ちなみに僕、今日、告白されました」
 思わず低く呻いてしまった俺を知ってか知らずか、まるでトドメのようにそう付け加えられて、もう声も出ない。
 左手で前髪をくしゃりと掴んで俯く。ああ、そうだった、こいつは俺より一枚も二枚も上手なのだった。相変わらずの柔らかい声で話す古泉に、見透かされている気がして恥ずかしくなる。目の前にこいつが居なくて本当に良かった。今の自分はきっと、酷い顔をしているだろう。いつもは憎いこの距離に、このときばかりは感謝する。

 火照った顔を冷やすように緩く頭を振ると、一応合コン上の礼儀だと思って外していた指輪がポケットの中で音を立てた。万が一にでも無くしたりしないようにとキーホルダーに通していたそれは、古泉から紆余曲折の後に贈られたもので。大方の予想通り、普段は左手の薬指に填まっていたりする。
 …この行為も大概恥ずかしいと思うのだが、自分も古泉に贈った手前、そうせざるを得ないのだ。(この辺りは話すと長くなるのでまた次の機会にさせていただきたい。それに、思い出すだけでいろんな意味で顔が熱くなるので、今の俺では明らかにキャパオーバーだ)
 自分ばかりが相手に惚れているようで、全くもって面白くない。

 ふふ、と機嫌良く笑う古泉の声が、携帯越しに聞こえてくる。
「何がおかしい?」
 声が少し低くなってしまったのは、もう、どうしようもない。
「いえいえ。…月が綺麗ですね」
「は?」
 随分と唐突な話題転換に思考がついていかず、間抜けな声が洩れた。見上げれば、冬特有の青白い月がうっすらと空の中央に浮かんでいる。ただそれは、今にも消えてしまいそうな細さの三日月で、綺麗、といってしまうには些か心細い気がした。
「なんとも頼りない月な気がするんだが」
 それとも、古泉の所では満月だったりするのだろうか。
 …そんなはずはない。離れていると言ったって、同じ日本国内だ。月の形が変わるとは思えない。
「ええ、そうですね」
 俺の言葉に、古泉はそう同意した。ますます意味が分からない。電話口からは相変わらず機嫌の良い声が聞こえてくる。

 混乱する俺を余所に、古泉は自分の近況を一通り勝手に喋って、「明日は早いので、そろそろ切りますね」と電話を切ってしまった。
「知識は使ってこそだと思いますよ、文系学生さん。では」
 そう、意味深な一言を残して。

 …馬鹿にされてるんだろうか。確かに俺は文系だが何が悪い。というか、今は一応情報的なものを学んでるから理系っぽいこともしているぞ、とよく分からない反論をしようにも、もう電話は切れてしまった。ツーツーと通信終了の音を鳴らす携帯電話を眺める。59分28秒。大した話はしていないはずなのに、一時間近く経っている。
 夜空には相変わらず、糸のような月が。

 月が綺麗ですね。

 人気のない道に、古泉の声が木霊する。
 まるで古泉が隣にいるように感じて、なんとなく心が浮き立つ自分に苦笑した。恋愛はこんなにも人間を単純にするらしい。遠く離れて暮らしながら、そうしみじみと実感する。俺はやっぱり、あいつの事が好きなのだ。認めたくないけれど認めざるを得ない。

 そんなことを考えていたら、唐突に古泉の言葉の意味に思い当たって、暗い夜道で一人、盛大に顔を赤らめる羽目になった。
 手の甲を頬に当てて、熱を冷ますようにして呟く。


「恥ずかしい奴…」



※『月が綺麗ですね』は、"I love you,"の夏目漱石訳。




【PS. I Love You.】
 2009/11/15