「抵抗しないんですか?」
 銃口を向けると、男は口の端を上げて笑った。
「したほうがいいなら、するが?」
 ちょっと首を傾げて、上目遣い気味に覗き込んでくる目は愉快そうな色を隠しもしない。
 彼は明らかにこの状況を楽しんでいた。

 勿論これはただの脅しではない。
 事実、僕はある組織から彼の殺害を依頼されている。組織の素性は知らないが、別に興味がないのでどうでもいい。僕としては、彼を殺す理由さえあればかまわない。僕のことをボディーガードなのか愛人なのかよく分からない扱いをする彼も、ある組織のトップだったりするわけだから、彼の命を狙っている人間なんてそれこそ星の数だろう。
 目の前で愉しげに笑う彼について、知っていることは極少ない。キョン、というあまりにもその立場にそぐわない通称以外、名前すら知らない。とはいっても、どうせもうすぐ死ぬ人間だ、名前を知っても意味はないだろう。あからさまな大男という訳でもなく、異様な存在感を纏わせるわけでもない、取り立てて目立つものを待たない彼が組織のトップだなんて、信じられない人間もいるかもしれない。確かに僕も、最初は我が目を疑った。けれど、一見人の良さそうな平凡な容姿をした彼が、ふとした瞬間にみせる壮絶な笑みは確かに修羅場を潜った人間のものだ。彼はいつもどこか気だるそうにしながらも、その余裕を崩すことはない。
 手に持った銃は古いモデルだが、欠かさず手入れをしているからまだまだ現役だし、充填も済んでいる。引き金を引けばたちまち銃弾が彼を貫くだろう。この至近距離だ、致命傷は避けられない。人払いをされている場所だから、銃声が響いたところで、誰かが駆けつける頃には彼は息絶えている。
 ベッドの上、何も纏わぬまま上半身だけを起こして向かい合う二人は、端から見ればさぞ滑稽だろう。ビルの高層階、やたら広い部屋にはベッド以外に大した物はない。ただ、壁面が全面マジックミラーという酔狂な作りなものだから、部屋の灯りを落とせばあとは夜景が広がるばかりで、まるで空に浮いているような錯覚に陥った。ただ、もう早朝ともいえるこの時間帯、街は昨晩の名残も残さず、朝靄の中にひっそりと沈んでいる。緩い朝日が淡く靄を照らして、辺りはまるで白い海のようにみえた。
 …それにしても、キングサイズのベッドに真っ白なシーツなんて、些か少女趣味に過ぎやしないだろうか。

「何か言い残すことは?」
「特にないな」
 彼は肩をすくめて呆れたように溜息を吐く。吐息には、相変わらず楽しげな色が混じっていた。さあ殺ればいい、とばかりに、彼の人差し指が、とんとん、と自分の心臓の上を叩いている。本当に、抵抗する気はないらしい。
 案外あっさり終わる依頼だったなと思いながら引き金を引こうとしたその刹那、そういえば、と何かを思いついたような彼の声が聞こえて手を止めた。やはり怖くなったのかと彼の表情を伺えば、彼は余裕さえ感じさせる薄い笑みを浮かべていた。背筋に走った寒気に似たものに気づかぬ振りをして、僕は小さく首を傾げ、先を促す。
「お前に暗殺を頼んできた組織な、昨晩の内に潰しといた」
 何でもないよう告げられたそれは、結構どころではなく重大な事実だった。それはつまり、彼を殺しても報酬を払う人間は居ないということで。だから俺を殺したところで意味はないぞ、と彼は暗に言っているのだ。
 僕は溜息をひとつ落として、銃を構えた腕を脇におろす。

「また、あなたの勝ちですか」


 そう、これは別に今日に限った事じゃない。僕が彼の暗殺を請け負うのも、彼が依頼元の組織を潰してしまうのも、いつものことだ。依頼主がいなくなってしまえば契約は成立しない。契約が成立しないと僕は彼を殺す理由がない。だから、僕は彼を殺せたことがない。
「今回は結構羽振りが良さそうな組織だったので、一晩ぐらい保ってくれると思ったんですが」
 心底残念に思って、僕はまた溜息を吐く。
「そうなのか?」
「ええ。前金でまず一千万」
 そう言うと、彼がぎょっとした顔で僕を見る。
「安いな!…ちょっと待てお前、今までどんな値段で俺の暗殺請け負ってたんだ」
「さあ?」
 別に僕はお金がもらえれば構いませんし。
 そう言って微笑めば、彼は「おいおい…」と言いながら額に手を当てて落ち込んだ、――ようなフリをした。いい大人がそんなフリをしてもちっとも可愛くないし、なにより口元が笑っているのだから、分からないはずがない。
「やれやれ…お前も変な奴だな」
「変なのはあなたでしょう。なんで自分を殺そうとした人間を側に置いておくんですか?」
 僕が言えた義理ではないですが。
 そう呟くと、彼は愉しそうな表情を隠しもしないで口を開く。
「さて?なんでだろうな」
 まるで他人事のようにそう戯けた彼は、ふと何かを思いついたように、僕の顔を覗き込んだ。
「お前に惚れたから、とかでどうだ」
 彼の眼が、悪戯をする子供のように光る。
「嘘ですね」
 そんな顔で言われても、まるで説得力がない。素気なくそう返すと、彼は何が面白いのかさらに笑みを深くして、僕の首筋に唇を寄せた。
「いや、そうでもないぞ」
 ちり、と首筋に痛みが走る。この様子じゃまた跡がついてるんだろう。他人の視線を感じるから見える場所に付けられるのは嫌だと主張しているのに、彼は一向にやめる様子がない。虫避けだなんて言われても、四六時中彼の側にいる僕に、いつ虫が付く隙があるというのか。
 嫌がる僕を気にもせず、彼はどこかうっとりと言葉を重ねる。
「その白い指が実は他人の血で真っ赤に染まってるってのもゾクゾクするし、」
 跡を舐め上げられながら囁かれる言葉に、肌が泡立つ。
「花の香でも纏わせてそうな容姿なのに、近づけば硝煙の匂いしかしないのも嫌いじゃない」
 濡れた皮膚に熱い吐息が滲みて、背筋にぞくりとするものが駆け上がった。思わず息を詰めると、吐息だけで笑われる。
「…変態ですね」
 呆れたようにそう吐き捨てて窓の外に眼を逃せば、肩口にかかる重みが急に増した。支えきれずに倒れた身体は、柔らかいベッドに沈みこむ。
「その変態に抱かれてるお前も同類だと思うがな」
 そう言いながら被さってきた彼は、そのまま喉元に食らいつくように口づけてから、すぐ目の前まで伸び上がって、僕の眼を覗き込む。するすると身体を伝った行儀の悪い手に膝の間を割られると、昨晩の残滓がぐちゃりと水音をたてた。内股を伝い落ちて行く不快感に眉を歪めると、彼はその顔に似合わない、質の悪い笑みを浮かべる。
 段々と熱を帯びていく彼の手つきに心中で溜息を落とすと、僕はシーツに投げ出されたままの銃をベッドの下に蹴り落とし、抵抗を諦めて力を抜いた。


「…まあ、あなたのことはそれなりに好きですよ」

 他の人間に殺させてなどやるものか、と思うぐらいにはね。





【ただの日常、いつもの話。】
 2009/11/07