誠に申し訳ないのだが、それが今年のいつのことだったか、正確には覚えていない。確か、短くなったばかりの制服の袖に違和感を覚えていた頃だから、夏と呼ぶにはまだ早い時期だったかと思う。おかしな集団の知名度が日に日に高まっていく憂鬱さに遠い目をしながらも、それなりに慌しく日々を過ごしていた頃。
 今になって思えば、違和感は既にこの頃からあったんだと思う。

 珍しく団活の無い日曜、普段は足を運ばない街中の図書館の前で俺はがっくりと肩を落とした。吹き抜ける風は少し湿っぽいものの、昼寝をするのにはちょうど良い温度で俺の髪を揺らしていく。こういう日に部屋のベッドでまどろむのが至福なんだよな、と思いを馳せてみても叶わないなら空しいだけだ。現実逃避をするだけで目の前の現実が変わるのならどんなに良いだろう。

 さて、俺がなぜ、休日にわざわざ遠くにある図書館まで来ているのか。まあ、話せば長くなるのだが、掻い摘んで言うとこうだ。

 学生である限り避けられないその真っ白い紙(人によっては黒々としてるのは言うまでもない)が、真っ赤に染まって帰ってきたのが先週末。この場合、残念なことに赤は綺麗な円を描いてはくれず、往々にして谷のようなチェックマークが点々と散っているものである。右上で赤々と存在を主張している数字とは、できれば目も合わせたくない。自分の成績が褒められたものではないという自覚はあるが、改めて数値化されるとこう、胃の辺りにずっしりと重たいものが圧し掛かってくるのは俺だけではあるまい。学生を経験した(もしくはその真っ只中の)皆様になら分かっていただけることかと思う。俺の成績に対して比較的寛大で楽観的な母親にさえ隠しておきたいという辺りで、この事態の深刻さを理解していただけるだろうか。救いといえば、谷口の成績が俺に輪をかけて悪かったという事実ぐらいだが、それもまあ、所詮どんぐりの背比べである。後ろの席のハルヒは、どうしたらそんな点が取れるのかしら、と満点回答(もちろん自分の答案だ!)を前に心底不思議そうに首を傾げていたが、俺は逆にお前に聞きたい。どうしたらそんな点が取れるんだ。普通にやってりゃ取れるでしょ、と難なく言い放つハルヒには、俺のような凡人の苦労など分からんに違いない。
 そういえば、ハルヒもそうだが、長門や古泉なんかも苦労はしてなさそうだ。朝比奈さんはできるならこちら側に居てほしいと思うのだが、彼女だって未来から来た麗しいエージェントであるからして、この辺りは楽にクリアしていることも十分に考えられる。
 そういうことをつらつらと考えていると、やはり、凡人なのは俺だけなのだ、と改めて実感する。ただそれはニヤケハンサムの超能力者にも散々聞かされてきたことであり、別に今更、どうということはない——はずである。歯切れが悪いのは、まさにその事が今の俺が持つ違和感みたいなものと微妙に関わっている予感がするからであり、……まあ、それは追々分かってくると思うのでここでは割愛させていただこう。

 話を元に戻すと、その答案のあまりの酷さを見かねた英語教師が赤点の補習代わりにと課題を出したのだが、これがまた一筋縄ではいかなかった。「何か一冊英語で書かれた本を選んで、訳してくること」なんてのは、夏休みの課題なんかに相応しいはずで、決して「じゃあ来週提出してね」という程度の課題であるはずがない。ないのだが、赤点である自分には反論の余地もないのである。

 そうして話は冒頭に戻る。
 察しの良い皆様の中には既にお分かりの方もいらっしゃると思うが、こうして普段は使わない図書館までわざわざ足を伸ばしたのは、ここならおそらく英語の本が置いてあるだろうと踏んでのことだ。
 自動ドアが微かな音を立てて開くと、室内から独特の匂いが漂った。この少し湿っぽい紙の匂いが、俺は嫌いじゃない。館内図で大体の目安をつけてから、カウンターを通り過ぎて目的のコーナーへと向かう。日曜日の朝だからか、図書館の中とはいえどことなく騒がしい。小さな声で読み聞かせをする親子を横目に、机と椅子が並ぶ場所を突っ切って奥へ進んでいく。さて、さっさと本を探そして帰ることにするか。そう気合を入れながら何気なく辺りを見回せば、目の端に見慣れた姿が映った気がした。
 なぜそいつがここにいるのか。別に、居てもおかしくないのだが、居る理由がよく分からない。
「古泉?」
 もう一度目を凝らしたその先、ちょうど入口から死角になるような奥まった場所で、古泉一樹らしき人物が本を前にして座っていた。

 らしき人物、と言ったのは、その古泉(仮)が眼鏡をかけていたからであり、加えて、机の上に頬杖をついてぼんやりしてるように見えたからである。そして何より、俺の知る古泉とは纏う空気が違ったのだ。
 知り合ってそれほど経っては居ない人間の何が分かると言われれば、それはごもっとも、と頷くしかないのだが、それにしたってその古泉(仮…と言い続けるのは面倒なのでひとまず古泉で統一する)の雰囲気はいつもと違いすぎた。ちょっと古い例えを使うのなら、いつもなら周りに全力で張り巡らせているATフィールドが全くない状態、とでもいうべきだろうか。無防備、と言う単語を果たして高校生男子に対して使って良いのか迷うところだが、その古泉は確かに無防備だった。
 思わず足がそちらに向いてしまったのは、別に不自然なことじゃない。

 ぼんやりしているそいつを脅かせないようにそっと目の前まで近づいたところで、俺は古泉が眠っていることに気づいた。思わず、まじまじと観察してしまう。
 まるで作り物のような顔にのせられた眼鏡は、ごくシンプルな細い黒縁のダブルブリッジで、今時こんなものをかけている人間が居るのかと驚くぐらい古いタイプのものにみえた。机の上には、俺のクラスより幾分か進んだページを開くリーディングの教科書と、まだ何も書かれていない真っ白いページが開かれたノート、積み上げられてまるで塔みたいになっている参考書群に、縁が茶色く変色した辞書が並んでいる。古ぼけた辞書には真新しい付箋が大量に貼られていて、なんだかとてもちぐはぐだ、と俺は思った。
 シャープペンシルを持ったまま眠っているところからして、相当疲れているのだろう。レンズの奥の瞼はどこか青白く、目の下にはうっすらと隈ができている。
「……古泉?」
 疲れているのか。
 思わず声をかけようとして思い留まる。そんなの、確認するまでもない。
 よくわからない怪しい機関とやらに所属し、閉鎖空間で戦う謎の超能力者。空間の発生は昼も夜も無いそうだから、付き合わされるこいつにだって昼も夜も無いんだろう。
 ゆっくりと規則正しい呼吸に合わせて色素の薄い髪が揺れる。すうすう、と、まるで子供のような寝息。
 何もおかしくは無いのに、何故か見てはいけないものを見た気がして俺は顔を顰めた。