世界が薔薇色になってなくて良かったと彼がぼそりと呟いたので、ああとうとうこの人は頭をどうにかしてしまったのか確かに最近ちょっとおかしかったけれど、と思って眺めていたら、視線に気付いた彼は露骨に“しまった”という顔をした。

「今もしかして、」
「ええ、口に出してましたよ」
 そう返すと彼は、ああだとかううだとか形容しがたい声で低く呻いて頭を抱え、理科室の模型のように固まってしまう。今日の彼はなんだかいつも以上に行動が読めない。そのままほっといても害はないだろうと判断して部室をぐるりと見回したけれど、何かが変化した様子は無く、もちろん”薔薇色なもの”も見あたらなかった。(そもそも薔薇色というのは具体的に何色だろう。やはり暖色系の色なのだろうか)
 なぜ彼が急にそんなことを言いだしたのか気になった僕は、まだ頭を抱えたままの彼に話しかける。
「薔薇色がどうかしたんですか?」
「いや、なんでもない」
 彼は自分の発言がよほどダメージだったのか、力のない声で答えた。これが何でもないわけがない。
「気になります」
 いつもなら、そうですかと流すところだったのかもしれない。けれど、今日は僕もどこかテンションがおかしかったらしい。言い募る僕に根負けしたのか、彼は、大したことじゃないぞ、と前置きしてからぼそぼそと口を開く。
「別に、昨日の今日で、世界が変わって見えたらどうしようかと思っただけだ」
 ああ、なるほど。恋をすれば、とかいうやつですか、とは心の中だけで。…それにしてもあなた、意外と思考がベタですよね。
「駄目なんですか?」
「いたたまれない」
 そう言って彼は大きく溜息をつく。俯いたままの彼は、おそらく遠い目をしていることだろう。そんな声をしている。
 そして非常に残念なことに、彼の気持ちが痛いほど分かってしまう僕は、彼の意見に同意せざるを得ない。
「それなら分かります。僕もあなたが平凡なままでほっとしているところです。…もし通常より5割増に格好良く見えたりしたら、屋上から世を儚んでしまうところでしたよ」
 他にも悩むべきところは山ほどあるはずなのに、あまりの超展開ぶりに頭がついてこない。動揺して正常な感覚がなくなっていたらどうしようかと心配していたけれど、目の前の彼は相変わらずの冴えない彼でほっとしている。…こんなことを考えること自体、すでに正常ではないかもしれないのだけど。
「…喧嘩売られてるか?もしかして」
 そう言って顔を上げた彼の目が心なしか座っている気がして、僕は急いで言葉を足す。
「いいえ、そういうわけではないのですが。なんといいますか、その、色々と想定外で…」
 頬の下を掻きながら口ごもると、そのままふたりして沈黙した。ああ、ほんとうにいたたまれない。

 目を合わせたまま沈黙を持て余していると、彼が目尻をじんわりと赤くする。何ですかその反応。そうは思うけれど、頬骨のあたりが熱を持っている気がする僕も人のことは言えない。放課後、夕暮れに染まりはじめた部室で押し黙る男二人。赤面したまま視線をぎこちなく外す自分達は、端から見たら相当気持ち悪い状況だろう。彼と二人きりなのは不幸中の幸いかもしれない。でも、そもそも二人きりじゃなければこんな雰囲気になるはずがなく(だって僕も彼も、それぐらいSOS団が大事で、最優先だ)、幸いとも言い切れるかどうか、…参った、思考がもう支離滅裂だ、今から24時間前の、たった一言のやりとりだけで、こんなにもどうしようもなくなるなんて!


 え、昨日何があったか、ですか?
 彼の言葉を借りる訳じゃありませんが、大したことじゃありません。
 大したことじゃ、ないはずなんです。

 …おそらくは。

 

【ぽろりと零れた告白が思いがけず受け入れられた日の、翌日の会話。】




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